親中派の台頭 馬英九総統の外交政策
「親中派の台頭」 馬英九総統の外交政策、対日戦略のブレーンで中華民国総統府国家安全会議諮問委員を務める楊永明台湾大学教授は、「日台間では相互に友好感情が存在するという基本認識です。台湾はおそらく世界で最も親日的な社会であり、日本でも台湾に対する好感が広範に存在しています。」としています。同じく中華民国総統府国家安全会議諮問委員(閣僚級、日台関係担当)を務める李嘉進は「日台は、通常外交では国益が基本ですが、日台は特別。お互いの好感度が抜群に高く、戦前からの歴史が育てた深い感情が出発点となっています。」として ...
中華民国の台湾統治政策
「台湾統治政策」 日本の理蕃政策と称された台湾原住民に対する統治政策は、原住民の教育水準向上に貢献し、法的には日本人や中国語系住民とほぼ同等の権利を認めております。 このように日本の台湾統治は、「武力蜂起は徹底弾圧」「インフラの整備」「日本人意識の植え付け」という特色を持っていました。これは西南戦争後の日本政府政策に酷似しており、日本は台湾を国内の一地方として捉えていたこと考えられます。 1942年には台湾で陸軍特別志願兵制度が始まり、1944年には徴兵制も実施された。約20万人余りの台湾人日本兵(軍属を ...
中国国民党の台湾への敗走
「中国国民党の台湾への敗走」 台湾では戦後、内戦に敗れた中国国民党とその軍隊が、大挙して台湾に敗走。中国国民党は反撃を国策とし、軍事を優先とした政策を実施したため、台湾のインフラ整備は後回しにされました。さらには新たに台湾に住みついた外省人を優遇し、古くから台湾に住んでいた本省人を弾圧(白色テロ、1947年に発生した二・二八事件はその最大規模のものである)したことから、本省人は「犬(日本人)が去って豚(外省人)が来た」「犬はうるさかったが番犬としては役に立った。しかし豚は食うばかりで役に立たない(日本人は ...
李登輝氏による台湾の民主化
「台湾の民主化」 1988年から2000年まで中華民国総統を務めた李登輝氏は国民党の独裁体制を廃し、台湾の民主化を進めました。李登輝の時代に監修された台湾の歴史教科書「認識台湾(歴史編)」では台湾史を本国史として扱い、日本の統治時代を重点的に研究されております。この「認識台湾」は陳水扁の民進党政権時代に削除されましたが、陳水扁総統引退後、総統になった李登輝氏は、台湾の独立を訴え、その中、国民党批判と日本統治政策の再評価を訴えております。 台湾における日本統治時代への評価は朝鮮に比べて肯定的であり、日本統治 ...
皇民化政策と霧社事件
「皇民化政策」 第二次世界大戦が始まると、皇民化政策により、多くの台湾人が日本人意識を持つに至っておりました。皇民化の背後には、台湾人のもつ漢民族的な風習・伝統・宗教に対する蔑視があり、台湾人の日本人に対する考えや、日本人の台湾人に対する優越意識はぬぐいきれず、戦後に持ち越されることになります。 平和的な印象の強い日本統治時代ですが、初期には統治に反対する武力蜂起がいくつか発生しました。武力蜂起は警察や軍隊により鎮圧され、蜂起に参加した者の多くは逮捕、もしくは処刑されています。 台湾原住民との間では日本統 ...
日本統治の功罪
「日本統治の功罪」 鉱山の開発や鉄道の建設、衛生環境の改善や、農林水産業の近代化などで台湾の生活水準は向上し、農工業の生産も増加しました。戦争になると台湾で生産された食料物資が内地へ供給されたほか、高雄の飛行基地建設や、徴兵制の導入など、日本人と同様に台湾人も兵士や労働力として活躍しました。1945年には衆議院議員選挙法が改正され、台湾から衆議院議員が選出される道も開かれましたが、日本の敗戦により実現しませんでした。また満洲国の運営や中国との折衝で台湾人が登用されるケースも多かったようです。 日本の統治に ...
中華民国政府は武力で弾圧 ニニ八記念碑
ニニ八記念碑 政府は武力で弾圧。不当逮捕や処刑、無差別発砲も行われました。その後も中華民国が台北遷都すると、38年に渡って戒厳令が引かれ、厳しい言論統制が行なわれた台湾では、このニニ八事件について公に語られることはありませんでした。公にこの事件が語られるようになったのは、戒厳令が解除される1987年以降になってからのことです。1996年2月28日、当時の台北市長陳水扁(後に中華民国総統)が公園の名称を二二八和平公園に改称し、二・二八事件で犠牲者を追悼する和平記念碑も作られました。
ニニ八記念館(旧:台湾放送協会 台北支局)
ニニ八記念館(旧:台湾放送協会 台北支局) 日本統治時代、NHK日本放送協会の台湾版として設立された放送局が、台湾放送協会(THK)。 台北支局の建物がニニ八公園の中に現存し、1996年になって、ニニ八事件や独立運動に関わる史料とともに「ニニ八記念館」として公開されています。ニニ八事件の当時には、中華民国政府が接収していましたが、民衆が占拠。ラジオを通じて、統治時代の台湾で暮らした台湾人なら誰しもわかる日本語で「台湾人よ立ち上がれ!」と呼びかけたのでした。
建築家近藤十郎の設計 西門紅楼
西門紅楼 台湾の若者が集まる西門町の駅のすぐ近くに、八角形のレンガ造りのレトロな建物があります。1908(明治41)年、台湾総督府営繕課に所属していた建築家近藤十郎の設計により、台湾初の公営の市場として建てられた西門紅楼です。裏手には、十字型の十字楼があります。 この西門町一帯は、旧来の台北の街の西側に、日本が新しい商業、娯楽街として開発した場所で、「西門町」という町名は、現在の地名ではなく日本統治時代の名残です。 1945年中華民国に移ってからは、主に劇場として、1960年代は映画館、老朽化のため一時低 ...
北投温泉博物館(旧:北投温泉浴場)
北投温泉博物館(旧:北投温泉浴場) 北投温泉博物館 台北で有名な温泉地の北投にある、1923年に建てられた公共温泉浴場が、現在の北投温泉博物館です。レンガ造りに瓦屋根、洋和風的な建物で、1階には大浴場(男湯)や女湯など浴室があり、2階は大広間を中心に、北投温泉の歴史や北投石も展示されています。元々、この地には公衆浴場の滝の湯(現存)が営業していましたが、この公共温泉浴場を皮切りに台北州庁の手によって温泉地として開拓されました。中華民国政府に接収後、かなりの間、放置されていましたが、現在は博物館として修復整 ...
明の鄭成功時代
「明の鄭成功時代(ヂォン・チォンゴン)」 1644年李自成(リジセイ)の反乱で明朝が滅亡し、満州族の清朝が進出します。反清復明(清に反攻して明を復活させる)の旗印を掲げて清朝に対抗していた鄭成功氏は清朝対抗拠点とするために、1662年オランダ東インド会社を攻撃し台湾を統治します。史上初めての漢民族による統治がはじまります。鄭成功氏は台湾を「東都」と改名し、現在の台南市辺りを根拠地としながら台湾の開発を推し進めますが1662年に病死し、続く鄭成功氏の子供たちも清の攻撃に耐えられず、3代で統治は終わってしまい ...
アロー戦争(天津条約)
「アロー戦争(天津条約)」 19世紀半ばにヨーロッパ列強諸国の勢力が中国にまで進出してくると、台湾にもその影響が及ぶようになります。1858年にアロー戦争に敗れた清が天津条約を締結したことにより、台湾でも台南・安平(アンピン)港や基隆港が欧州列強に開港されます。1884~85年の清仏戦争の際にはフランスの艦隊が台湾北部への攻略を謀り、清朝は日本や欧州列強の進出に対する国防上の観点から台湾の重要性を認識するようになります。台湾の防衛強化の為に清朝は、知事に当たる巡撫を派遣した上で、1885年に台湾を福建省か ...
鄭成功氏戦いから清朝による統治時代へ
「鄭成功(ヂォン・チォンゴン)氏戦いから清朝による統治時代へ」 明朝が倒れ清朝による台湾統治が始まり、中国大陸の漢民族が福建省、広東省から台湾へ移住してきます。このころ台湾に移住してきた漢民族(本地人、生粋の台湾人「本省人です」)」の言語(台湾語)は中国福建省の南部地域の言葉(厦門アモイ辺り)に非常に似ており、それが現在の台湾語につながっています。清朝は中華思想(簡単な説明、中国が世界の中心、皇帝は中国だけに存在しますので、当時中国の属国であった朝鮮は、日本の天皇を認めず、現在も日王と呼んでいる。)では台 ...
牡丹社事件(高士仏社事件)
「牡丹社事件」 1871年、そんな台湾に、宮古島民が乗った船が台風で台湾南部の八瑶湾に漂着します。乗員69人中、3人は水死、残り66人が原住民族のパイワン族の高士仏社に助けを求めましたが、誤解が生じ、54人が殺害されてしまいます。生き残った12人は中国福建省を経由して那覇に戻る事ができました。事件当時の宮古島は琉球王国に属していましたが、事件翌年の1872年、日本に併合され沖縄県になります。そこで日本政府は北京に大使を送り、牡丹社事件の解決を清朝に迫ります。しかし清朝は「化外(ケガイ)の民がやった」と拒否 ...
清朝時代の原住民
「清朝時代の原住民」 清朝は原住民を「番人」と称し、「生番」と「熟番」とに区別していました。清朝の統治下にあり徭役・納税義務の負担、清朝の法律が適用され、ある程度受容し漢人に近いと考えられたた原住民を熟番、統治外にあり中国文明を全く受容していないものを生番と呼んだ。中間段階にあるものを化番とする場合もある。 1722年、清朝によって「番界(境界線)」とよばれる漢人・原住民間の居住を東西に制定、漢人はこれを越えて進入・開墾してはならないとう法律により漢人による原住民進入・開墾は禁じられていました。実際は、漢 ...