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台湾(フォルモサ)の発見

「台湾(フォルモサ)の発見」 15世紀から16世紀にかけてヨーロッパで大航海時代、アジアの海上はマカオを租借したポルトガル、フィリピンルソン島を拠点としたスペイン、インドネシアジャワ島を拠点としたオランダがそれぞれ海上の覇権を競っていました。1625年にオランダ人によって描かれた台湾全島図には、3つの諸島として描かれていた台湾ですが、1つの集まりと扱った最初の地図です。台湾は、16世紀中期ポルトガル船が台湾の近海を通過した際に船員が偶然水平線に緑に覆われた島を発見します。その船員は、台湾の美しさに思わず「 ...

スペイン進出・明軍とオランダ

台南市の安平古堡(1624年) 1622年に澎湖を占拠し、東アジアでの貿易拠点を築いたオランダ東インド会社(The Dutch East India Company)は、まず明の支配下にあった澎後の明軍と1624年に8ヶ月に渡る戦火を交えます。オランダと明両国の間で和議が成立し後、明から澎湖の要塞と砲台を破棄させ、オランダ人の台湾への移動を認めさせました。このようにして台湾を占拠することとなったオランダ人は、一鯤鯓(現在の台南市安平区)に熱蘭遮城を築城し、台湾統治の中心としました。 オランダによる統治期間 ...

オランダによる統治時代

「オランダによる統治時代」(1624年 - 1662年) オランダによる統治が開始されると、フィリピンルソン島を拠点としていたスペイン人が台湾進出を試みすがこれを阻み、1626年に台湾北部の鶏籠(現在の基隆)を占拠、社寮島(現在の和平島)にセント・サルバドール城を築城し、蛤仔難(現在の宜蘭)に進出、滬尾(現在の淡水)にセント・ドミンゴ城を築城しました。台湾南部を中心に活動していたオランダ東インド会社ですが、続く日本への進出を試みます。しかし北部を占拠するスペインの勢力に妨害され進捗をみません、閉塞状態の打 ...

日本統治時代に始まった「国立台湾博物館」

日本統治時代に始まった「国立台湾博物館」 ニニ八公園の北側一角にある台湾博物館は、日本統治時代の1908年(明治41年)に設立された、台湾で最も歴史のある博物館。現在に残る建物も、1915年(大正4年)に完成したもの。建物自体が史蹟の1つです。日本撤退後も「台湾省立博物館」のちに「国立台湾博物館」と変遷しながら、今日まで運営。常設展示では、台湾の歴史、原住民族、地質や生物など、各セクションに分けて台湾に纏わる様々な展示が行なわれています。

台北市立第一女子高級中学

台北市立第一女子高級中学(旧: 台北第一高等女学校) 台北第一高等女学校 司法院の真向かい、総統府の斜め向かいにあるのが、台北市立第一女子高級中学、現在でも名門中の名門の女子高校です。 創立は1904(明治37)年、まず台湾総督府国語学校第三附属学校として開校。その後、1909明治42)年に台北州立第一高等女学校となり、1922(大正11)年台北第一高等女学校と改称されます。現在の校舎は、1932(昭和7)年に建てられた鉄筋コンクリート製です。関東大震災を経て、当時の耐震構造基準に則した建物になっています ...

総統府の北側隣に立つのが台湾銀行

台湾銀行本店(旧:台湾銀行) 総統府の北側隣に立つのが台湾銀行。 日本統治時代には、発券業務を受け持つ中央銀行でありながら、台湾最大の商業銀行としても運営されていました。中華民国になってからも台湾では商業銀行でありながら、2000年まで発券業務も行う特殊銀行でした。1960年代の銀行を舞台とする、2007年放映の日本のドラマ「華麗なる一族」(原作:山崎豊子)で、銀行のロビーがロケに使われました。

前金天主堂 カトリック信仰

玫瑰聖母堂(まいかいせいぼせど) メイクェイ ションムー ション (高雄玫瑰聖母聖殿主教座堂) 台湾では、古くからカトリック信仰しており、その象徴的な玫瑰聖母堂(前金天主堂とも呼ばれています。)を紹介します。玫瑰聖母堂はカトリック教会が台湾で建立した最初の教会で、アジア3大聖堂の一つにも数えられています。近代の台湾カトリック教会の発祥地としても知られ、台湾光復後にカテドラルとバシリカに指定されています。ゴシック様式とロマネスク様式の天高くそびえ立つ尖塔、アーチ型の窓枠、バラ窓を用いた美しく華やかな建築様式 ...

総統府の南側に並んで建つのが司法院

司法院「司法大厦」(旧:台湾総督府法院/裁判所) 総統府の南側に並んで建つのが司法院(司法大厦)。 1934年(昭和9年)に完成。設計者は後に台湾建築学会会長となった井手 薫。現存する済南基督長老教会(旧:日本基督教団台北幸町教会。1916年建立)も手がけています。台湾総督府法院には、高等法院、台北地方法院、検察局が設置され、台湾における最高司法機関でした。戦後、台湾に移管後も、司法院、最高法院(現在は移転)として機能してきました。4階部分は1977年に増築されたものですが、国定史跡となっています。

台湾総督府とその周辺

台北 総統府とその周辺 総統府を周辺とする一帯には、日本統治時代の建物の多くが現役で使われています。日本と同様、地震の多い台湾において、日本の建築物は耐震構造に優れていたという点も挙げられます。 中華民国総統府(旧:台湾総督府) 台湾旅行 台湾総督府 日本統治時代の象徴的かつ代表的建造物といえば、現在の総統府、台湾総督府の建物でしょう。1919年に完成。基本設計は、戦前、日銀本支店の建築を多く手掛けた長野宇平治で、日本初のコンペ(デザイン競争)で選ばれました。赤レンガに白い石を挟むデザインは、長野の師とも ...

台湾の近代化

日本政府は台湾で搾取したのではなく、台湾経営のために日本国民から搾取したのです。その搾取について日本人は同胞を救う事は当たり前ですので何一つ声をあげていません。領台初期の土地税を比較するとわかります、日本国内の地租は収穫の25.5%課せられていたのに対し、台湾は5%であり、朝鮮はさらに低く3.9%でしかありませんでした。日本から台湾と朝鮮へおいて大きな利益をもたらし、近代土地調査と土地制度の確立を行い、食料を倍増させています。人口も急増し、台湾などは日本国内に比べて倍増しています。 又、日本は台湾に鉄道を ...

台湾の水力発言所

現在も稼働する水力発電所と3人の殉職碑  台湾の南部は急峻な山々が聳え、多くの急流があることから、水力発電所が多数作られた。台湾の水力発言所は大半が日本統治時代に建設されたもので、今も11カ所が現役であるという。 高雄県の美濃(みのう)という小都市には、市街地から約6キロ離れた所に、竹子門(ツーツーメン)発電廠と呼ばれる水力発電所がある。1909年、台湾では二番目、南部では最初に設けられた発電所である。 発電所の建物は、日本統治時代からほとんど変わっていないという。内部の設備も、戦前からのものだ。発電機は ...

下淡水渓橋梁の架橋工事

「日本最長の大橋梁 飯田豊二技師」  西南部の高雄県とその東の屏東(へいとう)県はかつて下淡水渓(しもたんすいけい)と呼ばれた大河川を県境としている。流域面積では台湾最大の河川である。この河川に1913年、3年がかりで全長1,526メートルもの大橋梁がかけられました。 完成時には、天竜川鉄橋や朝鮮の鴨緑江鉄橋よりも長く、日本最長を誇っていました。この橋はトラスという複数の三角形を組み合わせた構造を用いている。24連ものトラスが延々と続く光景は、世界の鉄道技術者を感嘆させるに十分なものでした。 この橋梁が果 ...

阿里山開発の父

「阿里山開発の父 河合鈰太郎博士」 観光用鉄道としては、台湾中南部、国家風景区(国定公園)に指定されている阿里山の森林鉄道が有名です。軌道幅は762ミリと狭く、小さな鉄道であるが、標高差は2,244メートルに及び、連続スイッチバックやスパイラルもあり、美しい車窓を堪能できます。アンデス高原鉄道やインドのダージリン鉄道とともに、世界三大山岳鉄道の一つに数えられています。現在は蒸気機関車の復活運転なども実施され観光用に使われていますが、もともとは日本統治時代、阿里山で伐採される豊富な木材の搬出用に作られたもの ...

日本人「廣枝音右衛門」

日本人「廣枝音右衛門」が祀られているお寺があります 廣枝音右衛門(ひろえだ・おとうえもん)という海軍巡査は、2000人の台湾人部隊を統括していた指揮官でした。派遣先のフィリピンで戦況が悪くなり、彼は「ここで玉砕するは、君達ではありません。君達は父母兄弟の待つ台湾へ生還しその再建に努めなさい。責任はこの隊長がとります。」と言い、部下である多く台湾人兵士を無事に帰国させ、自身は指揮官としての責任を負って現地で自害しました。この指揮官が、今でも台湾で語り継がれている日本人の一人です。 台湾には日台の絆を感じられ ...

台湾上下水道の父

「台湾上下水道の父 浜野弥四郎」恩師バルトンと共に台湾へ渡る 恩師で帝国大学工科大学の衛生工学講師のウイリアム・K・バルトン先生に呼び出され、「浜野君、僕と台湾に行って一緒に仕事をしてくれないか」 内務省衛生局長の後藤新平から「台湾に上下水道を整備して風土病をなくしたい。この仕事を任せられるのは君しかいない」と懇願されたという。 台湾と澎湖島を領有した日本政府は、風土病に苦しんでいることは聞いていた。台湾平定までに死亡した日本兵はおよそ4800人いた、戦闘による死者は162人で、残りの4642人は風土病の ...