近藤兵太郎をご存じでしょうか。1931年(昭和6年)日本統治(日本植民地)時代台湾南部の小さな町・嘉義(かぎ)弱小だった嘉義農林学校野球部(略してKANO(カノ)の選手たちが日本人監督の指導のもとで努力して練習を積み重ね、日本の甲子園大会に出場して決勝戦まで進みました。“俺がお前たちを必ず甲子園に連れていく”。当時嘉義で会計の仕事をしていた近藤兵太郎は野球部の指導を引き受け、厳しい練習を開始。球場を神聖な場所として一礼することも教えます。
台湾の高校の野球部は日本人生徒のみで構成されていることが多かったそうですが、同チームは台湾人、日本人、原住民の3民族による混合。近藤監督は、打撃力のある台湾人、足が速くて強靭な体力の原住民、守備に長けていた粘り強い日本人を上手に組み合わせて配置し、それぞれの個性を生かしたチームづくりをしました。部員たちを我が子のように思い、地元の有力者に頭を下げて援助を頼んだり、近藤の妻も差し入れをしたりして応援します。
チームは徐々に強くなっていき、ついに甲子園に出場。初めて訪れる日本。そして甲子園球場に感動して喜ぶ選手たちは、嘉義(かぎ)とは違う土質の甲子園の土を手に取って喜びますが、監督は「土は土だ。台湾の土と変わらん」と一言。また、勝利した選手たちへの新聞記者たちのインタビューの中で、記者たちが「どうして日本人と台湾人が同じチームでやっているのですかね?」というような嫌味や差別的な質問を投げかけますが、近藤監督はとして「民族なんて関係ないでしょ。みんなただ一緒に野球をやる球児というだけだ!」と一蹴します。
嘉義(かぎ)から車で約1時間の距離にある烏山頭ダムを作った日本人、八田與一(はったよいち)が住んでいました。台湾総督府に在籍していた土木技師で台湾南部の大規模灌漑事業「嘉南大しゅう」を完成した日本人として、台湾では非常に有名な人物。同校野球部と本当につながりがあったかどうかは不明ですが、八田もまた、台湾の人々を差別しなかったことで知られ、台湾の教科書に業績が詳しく紹介されている人です。
愛知県代表の中京商業との戦いです。試合の中盤、ピッチャーの呉明捷は指を怪我して血を流し、コントロールが狂いファーボールを連発するなど大ピンチに追い込まれますが、守備をする選手たちは「打たせろ、必ず俺たちが守るから!」といって励まします。結局、決勝戦では破れてしまうのですが、台湾初の甲子園出場、そして準優勝という快挙を成し遂げました。中京商業はこの後、甲子園で3連覇するという強豪でした。嘉義農林もこの初出場の後、3回甲子園大会に出場します。
この選手たちのほとんどは実在した人物です。ピッチャーの呉明捷はその後早稲田に進学し、6大学野球での年間通算7本のホームラン記録は、長嶋茂雄の登場まで約20年間破られなかったそうです。2番バッター、蘇正生は卒業後、横浜専門学校(現・神奈川大学)野球部を経て、台湾野球界で活躍しました。このとき活躍した若者たちが、その後、台湾野球界の基礎となります。