日本統治時代

台湾総督府の技師八田興一

時代は前後しますが、台湾人に今でも愛され続けている日本人後藤新平を紹介します。後藤は、第4代台湾総督児玉源太郎を補佐する民政長官として児玉に同行し、1898年3月に着任しました。着任後旧慣制度の改善に努めていきます。

台湾人の悪習である阿片吸引の禁止でした。阿片吸引はオランダ支配時代から台湾に広まり、華僑を経て台湾に持ち込まれたとなっています。下関講和会議でも李鴻章は伊藤博文に対し“貴国は台湾で土匪(ゲリラ)と阿片に手を焼くよ”と捨て台詞を吐かれたというエピソードが残っているほどです。阿片についての日本の立場は「禁輸品」でありましたが、後藤は、台湾阿片令を出して阿片専売制度を設けました。阿片吸引者から阿片を一挙に取り上げるわけにはいかない。一挙に取り上げれば摩擦が生じ、その影で、ヤクザまがいの蛮行が蔓延ると判断したのです。阿片販売者を指定し、特定の仲買人と小売人に限定し、すでに阿片中毒にかかっている者のみに、購入通帳を持たせ、新たな吸引者への通帳交付は絶対しないことにしました。阿片価格は旧来に比して高価に設定することにより、阿片吸引者は激減し、加えて専売収入の増加にも増加していきました。

台湾統治のために、台湾の慣習で「保甲」を利用した密度の濃い警察制度を確立し、台湾を統治することにしますが、まず台湾の旧慣制度をよく科学的に調査し、その民情に応ずるように政治変化させて治める努力をしました。これを理解せずに日本内地の法政をいきなり台湾に輸入実施しようとする必ず摩擦が生じて争いになる。後藤が統治の初期に試みた事業の中の注目すべき成果は、清国によって始められ未完に終わっていた土地・人口調査事業を完遂しました。この事業をよって台湾の現状を徹底的に調べ尽くし、調査を通じて全土の耕地面積・地形が確定され、地租徴収の基盤が整えられました。1904年台湾貨幣が統一され、社会間接資本の建設に要する大量の資金が台湾銀行の事業公債により調達され、台湾の社会間接資本は往時の他の植民地には類例をみない充実ぶりでした、又基隆から高雄にいたる縦瑚貫鉄道の建設、この鉄道の起点に位置する基隆・高雄港の拡充、さらに縦貫鉄道に連結する道路の建設・拡充により陸上・海上運輸能力が格段に強化され、飛行場の設も行われ輸送網密度は当時の日本のそれに比べて遜色のないものでした。 米についても精力的な品種改良努力が重ねられ、「蓬莱米」として知られる新品種は品質と単収の両面で当時の東アジアにおける画期的な水稲種でした。台湾に適した新品種「蓬莱米」の開発に磯永吉が貢献しました。又水利灌漑施設の拡充による開田が相次ぎ、台湾の耕地面積が急拡大しました。米生産の拡大、単収の増加により台湾米の生産高は国内需要を凌駕し、日本への輸出が可能となりました。不毛の地を豊かな地に変え、台湾の可耕地面積の急拡大に貢献したのが、台湾総督府の技師八田興一です。八田は台湾中南部の烏山頭ダムを10年余の歳月をかけて完成させ、嘉南(嘉義)平野を豊かな農地に変貌させたのです。八田興一は後藤新平とならんで今尚、台湾にて深い尊敬されている日本人です。

亜熱帯の台湾を悩ませてきた不衛生と疫病・ペストに対する予防接種が義務化、マラリアの撲滅も、後藤による統治の功績です。又鉄筋コンクリート製の上下水道が日本国内よりも早く台北に敷設しました。日本の植民地政策は、外観は西洋諸国の熱帯植民地をモデルにしていましたが、日本の政策の枠組みは帝国形成の前半期に作られたもので、直接ヨーロッパの先例を模倣したというよりも、徳川時代の封建的秩序を打ち破り維新以来の30年で成功した日本自身の近代化の努力をモデルとしていました。明治の改革は西洋の経験に倣っていたとはいえ、形成途上の日本の植民地主義は、近代化による改革から繁栄する日本の建設という目標に結びつけた明治初期の政策理念の総称を抜きにしては考えられません。

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