日本統治時代

金門島の戦いで台湾を死守した日本人

金門島の戦いで台湾を死守した日本人・根本陸軍中将がいた。

1949年1月根本氏など旧帝国陸軍軍人7名は、5月に東京を出発し、宮崎県の延岡沿岸から台湾に向けて出発し、7月10日に基隆(キールン)に到着。8月に根本氏は福建省に赴き、国民党軍の作戦に参加した。旧日本軍高官を含む軍人たちが内戦中の中国大陸に渡り、国民党軍に参加していた、国民党軍と行動を共にしている可能性が高いことを日本政府が公式に認めたことになる。白団は1949年から1969年までの20年間、団長以下83名に上る団員が台湾で軍事教官として活動し、国民党軍の基礎作りに参加したのだ

北支那方面軍司令官を兼任した根本は、戦後処理に尽力した。その後、根本は蒋介石と20年ぶりの再会を果たす。蒋は根本に早く帰国して日本再建に尽くすよう訴え、根本の帰国時には、中国側は特別列車を仕立てて見送った。1949年当時の中国大陸では、日本軍の武装解除後にソ連軍も中国から撤退し、空白が生まれていた。その間、蒋介石の率いる国民党軍と、毛沢東配下の共産党軍との内戦がいよいよ正念場を迎えていた。

日本国内では、敗戦後の猛烈なインフレと大量失業により社会が混乱していた。中国大陸では共産党軍に圧倒されつつある国民党軍に対し、支援を呼びかける声も日本国内で高まり、これらの勢力は反共勢力と結びつき活発化していた。

日本では、職業軍人は公職追放され、軍人恩給の支払もおぼつかない状況が絡まっていた。軍人一筋に過ごした人たちは途方に暮れ、反共的志向があり、自分たちが敵として戦った国民党軍を正当化したいとの思いあった。

日本軍人の中で、ボランティアとして最初に台湾に渡ったのは根本氏を中心としたグループだ。根本氏たちは大陸で作戦に加わった後、国民党軍の台湾への撤退と行動を共にした。しかしその頃、白団招聘を具体化しようとしていた蒋介石は根本氏たち7人とダブルブッキングとなるのを嫌い、根本氏とその秘書役の2人だけを残して5人を帰国させている。

根本氏はこの時から1952年に帰国するまでの間、国民党軍の軍事顧問として多くの作戦指導に当たったが、もっとも効果が大きかったのが、中共軍の金門島(きんもんとう)上陸を阻止した作戦である。

金門島と馬祖島(ばそとう)は、国民党政府領である。

根本氏の作戦は、一発も反撃せずに全敵軍を上陸させ、内陸部に誘い込み一挙に撃滅するというものであった。案の定上陸部隊は簡単に上陸を果たしたが、日没後に国民党軍の奇襲部隊が、ジャンクに火を放ち、これを焼いた。中国共産軍は補給と退路を断たれた上陸軍は混乱状態に陥り、それに乗じて国民党軍は総反撃に出たのである。

根本は国共内戦で国民党軍が絶体絶命のピンチにあった時に、日本から台湾へ密航。国民党軍を補佐して、金門島の戦いで中国共産軍を撃滅し、台湾を死守することに成功した。

日台関係構築に貢献した白団メンバー富田氏ら3名の白団先遣隊が、台湾に渡ったのは1949年11月。彼らはその後に大陸に渡って重慶の蒋介石と面会し、大陸での作戦指揮を執る。だが戦況が不利となり、蒋介石一行と共に台湾に渡った。

白団メンバーは、台湾では軍中枢部の基礎を作り上げたとして評価され、団長を務めた富田氏は中華民国陸軍上将として遇され、遺骨の半分は台湾新北市にある海明禅寺に安置されている。

白団メンバーは、1972年の日中国交回復により、日本が台湾との国交を断絶した後に発足した「中華民族支援日本委員会」設立員として活躍している。国交断絶後、台湾の政財界との繋がりが深く、現在までの日台関係構築に貢献したことは間違いない。

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