日本統治時代に台湾人のために尽力した日本人が、のちに「土地神様」として祀られています。台湾で「神様」として祀られている森川という巡査について詳しく紹介しています。
日本統治時代に台湾人のために尽力した日本人が、後に土地神様として祀られたという話はいくつかあります。日本人は、魏志倭人伝の昔から、逆境でも不平不満を言わない、盗みを嫌う、名誉に命をかける、貧しくとも高貴である、災害や不幸に負けずまたたくうちに復興するといった美徳を持っています。日本統治時代の台湾でも、そうした日本人たちは各地で活躍し、台湾人のために自分を犠牲にした人々は多くいました。台湾各地に公職として赴任した日本人の逸話が多く残っています。当初の台湾人の生活は、原始的でした。農村、漁村の人々は文字が読めないのはもちろん、言語も統一されていないため、地域間の意思疎通ができず、産業は未発達でした。台湾は「瘴癘の地」として伝染病・風土病が蔓延し、旱魃や洪水などの天災も多く、また、原住民「蕃族」による首狩りも起きていました、平地の台湾人もその脅威に怯えながら貧しく暮らしていました。
当時台湾を支配していた清は、台湾を「化外の地」(文明の及ばない地)と呼び、「十去、六死、三留、一回頭」(10人が台湾に行こうとすれば6人は死に、3人だけが留まり、1人は逃げて帰る)、決して行きたくない場所でした。1874年日本出兵は、約36、000人、戦闘での死者がわずか12人だった一方、マラリアなどでの病死者は561人にも及びました。それほど、日本統治以前の台湾は、危険な地域でもあったのです。1896年、日清戦争に勝利した日本に台湾が割譲され、多くのが治安維持のために派遣されました。日本人警察官は多くの村人たちの現状に同情し、正義感を持って真摯に対応し、自己を犠牲にしてまでも村人たちの生活を守りました。その代表として台湾でもよく知られているのは、森川清治郎巡査です。現在の嘉義県の村に赴任した森川巡査は、半農半漁の貧しい生活を送っている村人に対し、私財を投じて文字を教え、怪我した村人を救い、衛生教育にも熱心だったことから、村人から非常に尊敬を集めました。しかし、台湾総督府が新たな税金を設けたことで、村人の生活はますます困窮したため、森川巡査は県庁に税金減免を求めましたが、その願いは聞き入れられず、むしろ処分を受けてしまいます。村人の力になれなかったことに責任を感じた森川巡査は、銃で自害しました。村人たちはその死を大変嘆きました。その後、村に疫病が流行した際、森川巡査が村長の夢枕に立ち、「水と衛生に注意すれば疫病は広がらない」とアドバイスし、そのとおり行ったところ伝染病が収束したと語り継がれています。今では「義愛公」と呼ばれ、土地神様として祀られています。