「台湾上下水道の父 浜野弥四郎」恩師バルトンと共に台湾へ渡る
恩師で帝国大学工科大学の衛生工学講師のウイリアム・K・バルトン先生に呼び出され、「浜野君、僕と台湾に行って一緒に仕事をしてくれないか」
内務省衛生局長の後藤新平から「台湾に上下水道を整備して風土病をなくしたい。この仕事を任せられるのは君しかいない」と懇願されたという。
台湾と澎湖島を領有した日本政府は、風土病に苦しんでいることは聞いていた。台湾平定までに死亡した日本兵はおよそ4800人いた、戦闘による死者は162人で、残りの4642人は風土病のために死亡した。当時の台湾は、人と家畜が-緒に暮らすような不衛生な状態だった。良質な井戸水は財閥や豪族が独占し、多くの民衆は雨水か河川から飲料水を得ていた。当然、街の排水溝は汚染水があふれ、マラリア、コレラ、ペスト、アメーバ赤痢などの風土病がまん延していた。
そのため、平均寿命は30~40歳という低さで、内地では「瘴癘(しょうれい)の地」といわれ役人でさえ渡台をちゅうちょするありさまだった。
風土病の撲滅は台湾の近代化において不可欠なテーマだった。そこで台湾総督府は、この難問を克服するには、上下水道の建設にあると考え、バルトンに依頼した。
バルトンは「都市計画の根本は上下水道の改良にある」という信念の持ち主。東京をはじめ23都市の衛生状況調査を行い、上下水道建設案を作成した実績のある人物だ。
バルトンは浜野を同伴することを条件に、台湾行きを了承した。浜野は大学でバルトンから衛生工学や写真術を学び、英語の得意な浜野が通訳もしていた。バルトンから絶大な信頼を得ていた浜野は、8月になるとバルトンに従って妻の久米と共に台湾に渡った。
バルトンと浜野は、着任早々に台北、大稻埕、艋舺など市街地の衛生および給排水状況を調査し終えると「この街はひどい。建設よりまず破壊から始める必要がある」と嘆いた。同年9月末には『衛生工事調査報告書』を提出している。さらに、台湾内を北から南まで澎湖島を含めて精力的に歩き回り、マラリアや赤痢に苦しめられながら台湾上下水道計画の基礎を作り上げた。基隆の水源探しに没頭していた1898年に後藤が民政長官になって渡台した。心強い味方を得た2人は、基隆設計案を仕上げた。休暇を取って日本に一時帰国したバルトンは、悪性の肝臓膿腫を発症し43歳の若さで急逝した。
恩師を失った大きな悲しみが浜野を襲ったが、悲しみの中で台湾に残って恩師と共に作成した設計案を実現する道を選んだ。まず基隆の水道建設に取りかかった。基隆水道は暖暖の地を水源にして、取水した水を山の斜面を利用して沈殿池、ろ過池、浄水池へと導く省エネ設計を基に、02年に完工した。
浄水池からの清潔な水は、鉄道に沿って引いた水道管で基隆市市民に届けられた。自然の地形をうまく利用した基隆水道は、110年経過した今日でも現役で稼働している。2007年には、同浄水場が文化的景観に指定され、建設当時の「八角井楼」と「ポンプ室」は、歴史的建築物に登録されている。
これ以降、1909年には打狗(高雄)が、11年には嘉義が、14年には台南上水道が着工された。台湾の都市上下水道建設は、1896年から始まり、1940年までに大小水道は計133カ所も建設された。これにより、台湾人口156万人分の水道水が提供できるようになり、風土病のまん延は克服された。
特に台南上水道は、10年もの歳月をかけ、1922年に完工した。工事では後に烏山頭ダムを構築することになる技師の八田與一が浜野の部下として働いている。2人は水源調査で台南市や曽文渓周辺の調査をくまなく行い、水源地を山上の地に置くことを決めていた。この調査で、八田は曽文渓から台南にまたがる地形に精通し、水路の引き方や暗渠(あんきょ)、開渠(かいきょ)をはじめとする水利工事の工法など、多くの知識を浜野から実地に学んだ。これは、後に嘉南大圳の工事を設計する際に、大いに役に立ったはずである。この時の経験が、やがて15万ヘクタールの不毛の大地を台湾最大の穀倉地帯に変える「嘉南大圳」を完成させることになる。
1919年までの23年間は、浜野と久米の苦労は並々ならぬものがあった。土匪(ゲリラ)の襲撃で治安が安定せず、2男2女のうち長女と長男を亡くしたが、衛生工学に生涯をささげた。山上水源地に建てられた銅像は、金属類供出令により44年に姿を消した。銅像が姿を消した台座には、「飲水思源」の石碑が建てられた。しかし、この石碑も台風により壊れ放置されていた。
水源地を訪ねた台南の実業家、許文龍はその姿を悲しみ胸像を寄贈、2005年5月16日に元の台座に再び設置した。山上浄水場および水源地は国定古跡に指定され、13年に浄水場の修復が終わり公開されている。ぜひ訪問してほしい。「台湾上下水道の父」浜野が待っていてくれる。